
施設名: 電信屋跡
住所: 沖縄県石垣市崎枝
訪問日: 2024/1


石垣市史跡
昭和61年9月25日指定
俗にデンシンヤー(電信屋)と呼ばれているこの元海底電線陸揚室は、1897(明治30)年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた所である。
1895(明治28)年の日清戦争終結後、日本はその領有するところとなった台湾との間に軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、1896(明治29)年、まず鹿児島と沖縄本島との間に、ついで翌97(明治30)年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷いた。これによって本土ー沖縄本島一石垣島一台湾間の通信施設が完成したのである。
なおこの年、石垣・西表間にも海底線が敷設された。
開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のち逓信省に移管され、一般公衆用通信にも供用された。明治30年のことである。この年、石垣島では大川12番地に八重山通信所が設置され、一般公衆電報取扱いが開始されている。なお、太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となった。無数の弾痕がこれを示している。
なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
昭和62年10月
石垣市教育委員会

電信屋記念碑

電信屋記念碑
碑文
1895年(明治28)の日清戦争終結後、日本はその領有となった台湾との間に通信回線を敷設することにし、1896年(明治29)先ず鹿児島〜沖縄本島との間に、次いで翌1897年(明治30)沖縄本島〜石垣島〜台湾間・石垣島〜西表島間に海底電信線を敷設した。
これにより本土〜沖縄本島〜石垣島〜台湾間の通信回線網が完成した。
当初、通信回線は陸軍省が管轄していたが、後に逓信省に移管され1897年(明治30)7月1日八重山郡大川村12番地に八重山通信所を設置し一般公衆電報の取扱を開始した。
以来この海底電信線は明治・大正・昭和の三代にわたって政治・経済・文化その他各分野の先駆けとしての重要な使命を担っていたが太平洋戦争の戦災を受け昭和20年に破壊された。
21世紀高度情報化社会の到来とIT新時代を迎え、電気通信システムも著しく変貌しつつあるが、この海底電信線の敷設された歴史的経緯を永く残すため、海底電信線の陸揚げ地であるこの地に記念碑を建立する。
2001年12月吉日
電信屋記念碑建立期成会
並びに県内外有志一同

内地台湾間及南西諸島連絡海底線布設
鹿児島・大浜〜奄美大島〜沖縄〜石垣島〜台湾・基隆(八尺門)
支線
鹿児島・大浜〜種子島〜屋久島
奄美大島〜徳之島〜沖永良部島
石垣島〜西表島
注 明治43・6・24 八尺門を淡水に変更す
敷設線種長
浬
S 45.830
I 282.903
D 716.607
合計 1.045.340

沖縄県指定史跡
海底電線陸揚室跡(電信屋)
令和3(2021)年8月27日指定
通称「デンシンヤー」と呼ばれているこの施設跡は、1897(明治30)年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底電線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた場所である。
1895(明治28)年の日清戦争終結後、台湾が日本領となると、陸軍省は台湾の監視と植民地政策の推進を図るための軍事的目的に基づいて、1896(明治29)年に臨時台湾電信建設部を設立し、鹿児島から奄美大島、沖縄本島、石垣島を経て、台湾の基隆までを結ぶ海底電線を敷設した。その際、日本本土と台湾を結ぶ海底電線の重要な中継基地として、1897(明治30)年に海底電線陸揚室が建設された。同時に、石垣市字大川12番地に八重山通信所が開設され、石垣島と西表島を結ぶ支線の敷設も行われた。
開通した海底電線は、当初、陸軍省が管理していたが、1898(明治31)年に逓信省に移管され、軍事通信の傍ら一般公衆用の通信にも供用された。なお、太平洋戦争の際には連合国軍の攻撃目標となった。外壁に残る無数の弾痕がこれを示している。
敷地内には、建物のほか貯水用タンク、石積、井戸などが現存する。洋式の建築技法が用いられた建物の内部は、試験室と休憩室の二つに仕切られている。建物防護用の石積みは、海側に面した南東側と南西側に設けられている。
このように、海底電線陸揚室は1897年に造られた通信施設であり、日清戦争後の台湾経営など近代日本の政策や軍事に関する遺跡である。また、沖縄県が近代の通信情報網に組み込まれた社会情勢を示すとともに、八重山諸島における沖縄戦の痕跡を残すことにおいて重要な史跡である。

大崎牧場から電信屋に向かう道

電信屋下の砂浜。とてもきれいな砂浜でした。

砂浜からは石垣無線中継所が確認できます。










